『三角形の行く末 ②琴吹紬』
琴吹紬は上機嫌だった。
彼女は「えへへ~」と弛緩した笑みを浮かべながら、携帯電話で送られてきたメールを読んでいる。机の上には夏期講習の復習の教材が広がっているが、真面目な紬にしては珍しくその進行具合はよろしくない。
「えっと、『今度カラオケ行きたいなぁ』……。ふふ、『私も行きたい! りっちゃん、何か歌いたい曲ある?』っと……」
メールの相手は田井中律。律とのメールのやり取りはもう一時間近く続いている。律がメールをよこしては、紬がすぐに返信して、その返信にもすぐに返信がくる。それは勉強も捗らないというものだった。
その内容はといえば、先日二人で遊びに行ったときのことから、軽音部のこと、勉強のこと、ちょうど今テレビでやっている番組のことといった本当に他愛のないものばかりだ。どうでもいい内容と言ってしまって差し支えない。
しかし、紬はその『どうでもよさ』に幸福を感じていた。
紬の家庭は裕福で、その中で不自由なく暮らしてきた彼女は少々感覚が世間離れしていた。そのせいもあってか中学時代、友人はいるにはいたものの、それほど深い関係を築くことができずにいた。
だから、こんな風に夜にずっとメールをする、という行為は高校生になるまでしたこともなかったのだ。
世の中には自分の知らない楽しい事がたくさんある。
それを教えてくれる軽音部の友人達に、紬は心から感謝していた。
特に、律に対してその想いは強かった。
軽音部の部長として、それからかけがえのない友人として、律は紬を引っ張っていってくれる。そもそも、合唱部と間違えて音楽室に来た紬を軽音部に誘ってくれたのは律だった。
高校生活を素晴らしいものにしてくれている軽音部。
本当に、感謝してもし切れない。
しかし最近、紬の中には律に対する単なる『感謝』だけではない、それよりも強い、自分を根底から揺るがすような、自分の全てを変えてしまうような強烈な感情が芽生え始めていた。
その感情もまた、今までに紬が経験したことのないものだった。
(まぁ、経験したことがないだけで、心当たりがないというわけではないのだけれど)
恋。
多分、これが恋というものなのだろう。
その人と話をすると心が弾んで、その人を想うと何だか嬉しくて、でも同時に苦しくなって。
まさにテンプレート。物語の中に出てきそうなフレーズ。それを今、現実に律に対して感じている。これが恋でなくて、何だというのか。
とは、思いつつ。
やはり、紬の中にはまだ迷いもある。
『明るくてカッコいいりっちゃん』への憧れを、恋だと勘違いしている可能性は捨てきれない。
『知らないことをいっぱい教えてくれる優しいりっちゃん』への信頼を、恋だと想い違っているのかもしれない。
しかしその真偽を確かめる術を、恋をしたことがない紬は持ち合わせていなかった。
自分自身の事を自分自身で確かめることができないだなんてちょっと皮肉、と紬は嘆息しつつメールを打つ。ちなみに今の話の内容はこの間紬が学校に持っていったお菓子に対する律の感想。紬はさりげなく律の好みをチェックする。最近のチョイスは律好みのものばかりだ。
もう誰かに訊くしかないのだろうと、紬は思う。
自分の中にある想いを率直に話してみて、客観的に判断してもらいたい。この気持ちは恋なのか、はたまた違うのか。
ついでに言えば、その『誰か』は恋というものを知っている人間でなければ駄目だ。自分と同じく「よくわからない」では意味がない。
さて、では、一体誰に。
「う~ん、餅は餅屋、とも言うし」
いや、ちょっとそれは違うか、なんて思いながら紬はある二人の顔を思い浮かべる。
それは自分の友人達の中で、唯一恋人関係にある二人の女の子だった。彼女達なら、きっと知っている。お互いを想いあって、大切にしているあの二人ならば。
それに前々から訊いてみたかったのだ。
二人は付き合いだした後も、その前とそれほど変わったようには見えない。片方が大袈裟に求愛して、もう片方が顔を真っ赤にしながら抵抗するというお決まりのパターンをずっと続けている。
でも、二人きりで遊びに行ったり、互いの家にお泊りなんかもちょくちょくしているんだと言っていた。
そういう時、あの二人はどんな感じなんだろうか。どのようにその時間を過ごしているのだろうか。
これは、紬の気持ち云々とは関係なく、純粋な興味だ。年頃の女の子ならその手の話題が気にならないわけがないし、それにそういった『ガールズトーク』も紬の憧れだった。
(よし、そうと決まれば早速)
と心持ち鼻息荒く紬はアポ取りのメールを打たんとすべくアドレス帳を開いて、はて二人のうちどちらと話そうか、と考えているうちに携帯電話は律からのメールを受信した。
そして、そのメールの内容を見て。
紬は苦笑した。
『そういえばさぁ、さっき澪と電話してたんだけど、その時前にムギと遊びに行ったことを話したんだ。そしたらさ、「何で私も誘ってくれなかったんだよ!」だって~。私は澪も誘ったんだぜ? 怒られ損だ……』
秋山澪。
紬の所属する軽音部のベース担当。
紬にとって、とても大切な友人。
そして、律の幼馴染。
紬は考える。
律と澪の関係が深いもので互いのことを信頼し合っているというのは誰しも、本人達だって認めるところ。間違いなく、親友といえる。
では、それ以上の感情となると、どうだろうか。
すなわち、恋をしているか、どうか。
律に関しては、何とも言えない。自分が言えることではないが、そういう感情に疎いような気もする。
ただ、澪に関しては、何となくわかる。
澪は、律に恋をしているのかもしれない。
例えば、彼女が書く歌詞。それらの中には、恋する女の子の気持ちを詠ったものもある。そして、その詞がまるで律へのラブレターのように感じる時があるのだ。
それは紬が彼女達のバンド、放課後ティータイムの作曲担当だからこそ、感じるものなのかもしれない。
歌詞をもらってから曲を考えるとき、登場人物を澪と律だと考えるとしっくりくるのだ。詞から音楽が生まれてくるような、自然と口から音が紡がれるような、そんなことがよくある。
やはり、詞を書いた人物の想定どうりの設定だからこそ、ではないだろうか。
(ただの妄想かな)
でも、もし澪が律のことを好きだとして。
そして自分が本当に律のことが好きだとするのなら。
「三角関係になっちゃうわよね~……」
困った困った、と呟きながら紬は律への返信を打ち始める。
しかし、その表情は困ったなんて言葉とは裏腹に、どこか楽しげだった。
結局、彼女はそれほど困っていなかったのだ。恋なのかどうかすらわからないこの感情がくれるものは、彼女にとって、全部が初めてで、素敵なことに思えて、楽しくて。
それに例え三角関係だったとしても、だからといって自分達の関係が壊れるようなことはないと、紬は確信していた。
だって、私達は放課後ティータイムですもの。
根拠のない、理由のない、でも絶対的な自信。紬が思う恋を知っているであろう二人のうちの一人、ほんわかとしたいつでも笑顔の可愛らしい友人に影響されたに違いない。
(……よし、話はあの子に訊いてみよう)
紬は心の中で、そう決める。
きっとあの子の話は、自分にまた何かしらの影響を与えてくれるだろう。
さて、どんな話が訊けるのだろうか。あの子は何を語ってくれるのだろうか。そして、自分の気持ちの正体はわかるのだろうか。
ちょっぴりの不安と、そして大きな期待。
逸る気持ちを抑えつつ紬は律へのメールを打ち終えると、アドレス帳から一つの電話番号を呼び出して、通話ボタンを押した。
「……あ、もしもし、唯ちゃん? ……うん、こんばんわ。遅くにごめんね。……え~と、急で悪いんだけど明日ってお暇?」
さっさと仕上げられように頑張りまっす!
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